2005年

ーーー11/1ーーー 新百合ケ丘の99時間

 新百合ケ丘の展示会が終わった。9日間に渡り朝10時から夜9時まで、延べ99時間、会場にはり付いた。始まる直前は、気が遠くなるほど長い時間のように思われたが、終わってみると、あっけないほど早かった。

 会場にお越し下さった方々に、心より感謝を申し上げたい。お忙しい中、遠くから来て下さった方には、頭が下がった。以前私の家具をお買い上げ下さり、また今回ご注文を下さったお客様たちは、私に大きな喜びと自信を与えてくれた。

 正直なところ、良いことばかりでは無かった。会場の選定に対するご批判も、お客様から頂いた。しかし、今後のための勉強をさせてもらったと考えれば、それも収穫であった。

 ビジネスとしての分析を離れれば、とても楽しい99時間であった。他のジャンルの作家と合同での展示会は、始めての経験である。個展や木工のグループ展とは違った面白さが感じられた。なによりも、メンバーが良かった。

 今回のプロジェクトのリーダーとして活躍してくれた大原さん。笑顔が優しい竹細工の吉田さんと、その奥さん。クールで優しい女性、ガラス細工の横尾さん。レジの守護神、ガラス作家の秋澤嬢。いずれのメンバーも、物作りをしているという共通項で心が結ばれていた。どう見ても金もうけが上手いタイプの人々ではなかったが、穏やかで礼儀正しく、いつも笑顔を絶やさない、素敵な人たちであった。

 昔の知り合いが来場して、「大竹さん、こういうことは楽しいでしょう」と言った。私は素直にそう思うと答えた。展示会場には、こういう仕事をしている者にしか味わえない喜びがあった。永年にわたり作り上げてきた自分のスタイルを、世の人々に見ていただき、評価を仰ぐという行為は、普通の職業の人だったら、一生の間に滅多に無いことであろう。収入の面では常に恐怖にかられている生活の代償として、我が儘な幸せを味わせてもらった9日間であった。

 展示会は、数え切れないほどのエピソードを私の中に残した。自宅へ戻った晩、私はそれらを延々と家族に話して聞かせた。家内が用意しておいてくれたシングル・モルト・ウイスキーのボトルは、その晩のうちにほとんど空になった。



ーーー11/8ーーー 安曇野スタイル2005

 
先週の木〜日曜日の4日間、「安曇野スタイル2005」が開催された。と言ってもピンと来ない方が多いだろう。安曇野スタイルについては、以前このコーナーでも少し触れたことがある(マルタケ2005年4月19日)が、ここでもう一度ご紹介しよう。

 安曇野スタイルというのは、穂高周辺のペンションのおカミさんたちが中心となって運営している地域活動である。簡単に言えば、観光客が減少の一途をたどっているこの地域を、なんとか活性化させようという活動である(安曇野スタイルのホームページはこちら)。

 この地域には、驚くほど数多くの物作りの作家が住み着いて、創作活動をしている。また、美術館やギャラリーも多い。そこに目を付けた彼女たちは、アート・アンド・クラフト・マップなるものを作ろうと思い立った。安曇野地域の作家の工房やギャラリーを地図に落し込んで、一覧できるようにしたものである。そのマップを軸にして、この地域をアートとクラフトの里として位置付け、広く県の内外にアピールして、観光客を呼ぼうというのである。

 マップを製作する費用を捻出するために、昨年の7月と今年の4月には安曇野スタイル・コレクションというイベントも行なった。作家の作品を一堂に集め、展示販売をし、その売り上げの一部をマップ製作の費用に当てようというのである。イベントは当り、ある程度の資金ができた。

 一連の活動を通じて、安曇野スタイルの主催者である女性陣の行動力には、目をみはるものがある。

 今年の7月に、マップは完成した。マップ自体も、地元在住の絵の作家に描いていただいた。いわゆる観光マップとは違った雰囲気の、素敵なマップが出来上がった。そのマップに掲載されている工房、ギャラリー、美術館の数は、およそ100を数える。

 マップが完成し、次の企画として設けられたのが、冒頭に述べた「安曇野スタイル2005」である。これは、この地を訪れた人々に、マップを手に工房やギャラリー、美術館をたずね歩いてもらおうというものである。普段はなかなか敷居が高くて訪れることができない工房も、この期間は気軽に立ち寄ることができるという主旨。こういう分野に興味がある観光客にとっては、願ってもない企画であろう。

 この企画に参加した工房、ギャラリー、美術館の数は、約70件であった。

 私は当初、この企画に対して消極的であった。理由は、手間が取られる割には、仕事に繋がらないと予想したからである。開業以来、これまでも沢山の観光客が私の工房を訪れた。電話も無しに、いきなりやって来る「飛び込み」も多かった。それで仕事に繋がったものはほとんど無かった。要するに「ひやかし」なのである。

 ガラスや陶芸など、その場で買えるような価格、サイズの分野であれば、工房を公開し、製作の過程を説明し、帰りがけに作品を買い求めていただくということもあるだろう。しかし、家具の場合は、そのようなことはほとんど皆無である。まるまる二日間を、ご来場の方への説明だけで終わってしまうことになる。その間は、まとまった仕事にもかかれない。また、小さいお子様を伴って来るお客様には、安全の面などで気を使わなければならない。気乗りがしなかったのも、ご理解いただけるだろう。

 また、偉そうな言い方になるが、自分の工房は創作の場であり、生活の場であるというプライドが私にはある。それなりの気持ちで来てくれる人なら歓迎もするが、もの珍しさだけでやって来て、土足で踏みにじるような人はお断りしたい。実際そういう例が過去にあり、不愉快な思いをしたことがあるので、不安であった。

 それでも、せっかく知り合いが計画したイベントだから、最低限の協力はしようという気持ちで参加を決めた。日数も、四日間のうち土、日の二日間のみにさせて頂いた。

 いざ開幕すると、事はほぼ予想通りに推移した。チラシに公開は土日だけと書いておいたのに、違う日にやって来る人がいた。一応電話連絡を下さいとも書いておいたのに、突然やって来る人もいた。来る人はチラシの内容など詳しく見はしないという予想が的中した。もっとも、一部マスコミの報道に、「何でもあり」と取れる表現があったので、お客だけの責任ではないかも知れないが。

 木、金の二日間は、私は外へ出る用事があったり、また家の中での事務仕事に追われていた。やって来た人たちには、家内が事情を説明してお引き取りいただいた。それも面倒になったので、張り紙をして、お断りした。せっかく来てくれたのに悪いとも思ったが、もともとそういう予定だったので、対応することは無理であった。

 さて、本番の土、日はどうだったか。

 土曜日は三件、日曜日は二件の訪問であった。ほとんどが地元の人であった。このような工房があるので気になっていたが、普段は仕事の邪魔になると思い、訪問できなかったとのことであった。それを聞いて、私は少し驚いた。逆にそういう方々へのサービスとして捉えるなら、工房公開も悪くはないと感じた。

 この両日に来てくれた人たちは、品物を買うことを前提にしなくてもよいという安心感を抱いておられたようだった。こちらも売り込みを意識せずに話すことができた。それはそれで、はっきりとした関係だと言える。いつもとは違い、リラックスした気分を感じながら話が弾んだ。

 買う買わないは別として、作品を巡って気持ちの交流が持てるというのは、嬉しいことである。展示会における楽しみも、そういう所にあるのだが、自分の牙城でそのような交流を持つというのは、現場の雰囲気というものも手伝って、なおさら熱が入る。それを自分で楽しむのだと割り切って考えれば、これもまた良いものだと、一つの発見であった。



ーーー11/15ーーー 驚愕の体験

 人間は、びっくりしたりギョッとしたときには、思いがけない反応が身体に発生するものである。ハイドンの「びっくり交響曲」というのがあるが、突然大きな音で驚いたときに、どのような生理的反応が生じるのか。私の過去を振り返ると、ちょっと得難い経験、それこそ驚くべき経験がある。

 まだ会社員だった頃、インドネシアのプラント建設現場に9ケ月ほど滞在したことがある。それは、天然ガスからアンモニアと尿素を作る化学プラントだった。

 アンモニア・プラントは、高熱の炉で原料の天然ガスを分解する。その余熱を利用して蒸気を発生させ、プラント内の数々のポンプやコンプレッサーを蒸気タービンで駆動する。そのような省エネのシステムになっている。今回話題とするのは、その蒸気を溜めるスチーム・ドラムという装置である。

 スチーム・ドラムは1平方センチ当たり100キロを越す高圧の蒸気を貯える。もし事故でこれが爆発したら、プラント全体が吹っ飛んでしまうだろう。そのような装置には、安全弁の設置が義務付けられている。蒸気の圧力が異常に上昇した場合、安全弁が開いて蒸気を逃がし、ドラムの爆発を防ぐのである。

 安全弁はバネで作動する。単純な仕組みだが、これが一番信頼性がある。一定の圧力を超えると、蒸気がバネの力に打ち勝って、外に放出されるのである。

 その安全弁が、所定の圧力できちんと作動するかどうか、試験をする必要が有る。所定の圧力で吹き出すことの確認は、試験装置に取り付けて実施することができる。これは簡単だ。問題は、いったん吹き始めたあと、どの圧力まで下がったときにまた閉じるかの確認である。これは実機の試運転に伴って試験するしかない。これを安全弁封鎖試験と呼ぶ。

 私が滞在した現場でも、ある日この試験が行なわれた。数日前から序々に圧力を上げてきたスチーム・ドラムが、その日の朝には規定の圧力に達していた。安全弁封鎖試験は客先立ち会い事項となっている。ドラムが設置されている地上30メートルほどの高さのプラットホームに、客先のエンジニアと施工側のエンジニアが集まった。ドラムの上に安全弁が付いている。その傍らには圧力計が付いている。居合わせた人々は、その二つの物体に注目する。

 安全弁が吹くときには、大きな音がすると言われていた。だから、関係者は耳栓を着用して備えた。また、激しく揺れるので、しっかり手すりに掴まっていろと言われた。

 蒸気の圧力が、規定の値を超えてさらにじわじわと上げられる。現場の責任者から、そろそろ吹くぞという合図が出る。一同緊張する。

 突然、安全弁が吹いた。予告されているのだから、突然ではないと言えなくもない。しかし、この物凄い大音響のインパクトは、まさに突然の言葉が相応しい。全く予想外の大音響、息が詰まるほどのボリュームであった。

 その瞬間、いまだかつてない生理的反応が私を襲った。両足の裏に千本もの針が突き刺さったような感覚を覚えたのである。実際に痛みを感じたのである。その痛みを感じたことが、また一つの驚きであった。

 何故そのような感覚を覚えたのか、また、何故人体にはそのような感覚が必要なのか、今もって分らない。ともかくこれは得難い経験であった。

 ところで、この話を思い出すたびに、現場の光景が目に浮かぶ。足の裏に針がささった私のみならず、その場に居合わせた初体験の者は皆、逃げ出したい思いにかられていただろう。騒ぎたてこそしないが、内心はパニックである。そんな輩のうろたえぶりを尻目に、大音響とともに蒸気を吹き出し、ぐらぐらと揺れるスチーム・ドラム。その上に仁王立ちになり、びびって色を失っている客先エンジニアに向かって、圧力計を指で示して数値を確認させている初老の日本人エンジニアがいた。それはまさしく勇者の姿だった。



ーーー11/22ーーー オレオレ詐欺

 我が家にも「オレオレ詐欺」が来た。そういうものがあることは、マスコミの情報を通じて十分に知っているつもりだった。しかし現実に身近なところに発生すると、思っていたより危なかった。

 事の顛末は以下の通りである。

 ある昼下がり、同居している両親の部屋へ電話がかかってきた。母が受けた。最初は無言電話かと思ったそうである。こちらから「もしもし、もしもし」と繰り返し呼び掛けると、相手は「ああ、おばあちゃん?」と、元気の無い、ひどく落ち込んだような声で応えた。母が「○○ちゃんかい?」と息子の名を呼ぶと、「うん○○だよ」と名乗り、続けて「昨日××さんという人から電話があった?」などと意味の分らないことを言った。

 母が「そんな電話は無かったと思うけど・・・」と話すと、相手は「今おばあちゃん一人?」と聞いてきた。「いいえ、お父さんが仕事場にいますよ。呼びましょうか」と応えると「うん、そうして」と言った。そして母が仕事場へ私を呼びに来る間に電話は切れた。

 私はすぐに息子の携帯に電話を入れた。母が息子からの電話だったと言いはるので、疑いもせずに、何か息子の身に異変が起きたかと心配になったのである。

 息子は電話に出なかった。息子は昼間大学に行っているときは、携帯を持ち歩かないことが多いようである。私からの電話の呼び出し音は、寮の部屋で空しく鳴っていたのだろう。

 夕方になって家内がパートから帰ってきた。その話をすると、家内は一言のもとに「それはインチキ電話だろう」と決めつけた。息子がいきなり私の両親の方へ電話をかけることなど無いというのである。そう言われてみれば、ちょっとおかしいとも思えてきた。

 夜になって、再度息子へ電話を入れた。息子はうんざりしたような声で、そんな電話はしていないと答えた。

 逆に息子は、携帯に入っていた母からの伝言に不安を感じたと言った。私が登山に出掛け、帰りが遅れているのに連絡が取れない、というようなことを母が伝えてきたと、息子は勘違いしたのであった。何故そのような勘違いをしたのだろう。

 今度はこちらが、「そんな事実は無い」と答えた。

 不安が不安を呼ぶのである。言わば不安の連鎖反応か。不安という名の狂った磁石が、人を虚構の世界に導いていく。人はけなげにも、狂った磁石を信じきって、ずんずんと迷路に入り込んで行く。

 ニュースで聞けばそんなバカなと思える詐欺事件も、当事者にとっては真剣なことだったに違い無い。今回の出来事も、なあんだと笑ったものの、少々薄気味悪い後味となった。



ーーー11/29ーーー 作業マニュアル

 私は、定番品の椅子を作るときには、加工の手順を書いた書類を見ながら作業をする。製作要領書、つまりマニュアルである。

 マニュアルというと、すごく悪い印象を抱いている人がいる。血の通わない、大量生産主義が頭に浮かぶからだろう。誰がやっても同じようにできるための要領書など、個性を尊重する工芸木工家諸氏からは、邪悪な代物と受け取られかねない。

 しかし私の場合は、自分自身のために作っているマニュアルである。工房を訪れた人にその話をすると、たいていの人は驚きの表情となる。木工にある程度精通した人でも、それは珍しいことだと言う。たった一人でやっている工房で、マニュアルを見ながら作業をするなど、聞いたことがないと言うのである。

 私がマニュアルを整備している理由はただ一つ。書き物にしておかないと忘れてしまうからである。

 職人は体で覚えるくらいでないとダメだと言う人もいる。書いたものを見ながら仕事をするなど、ナマクラだと言うのだ。しかし、私の場合毎日同じことをやっているわけではない。定番品の椅子といえども、一つのタイプの椅子を製作するのは、まとめて作ったとしても、一年のうちの限られた期間でしかない。つまり、あまり頻度が無いのである。そのような仕事の工程を、完璧に覚えることは大変だし、その必要も無いと言える。その定番品も数種類あるのだから、製作工程を書き物にして整理しておかないと、自分でも分からなくなる。曖昧な記憶で手順を間違えるよりは、マニュアルを見ながらやった方が、かえって早いのである。

 始めのうちは、備忘録的に作業の勘どころを書き留めたものであった。ところが、断片的なものだとかえって全体が見えなくなる。そんなふうにして改善していくうちに、作業の流れに沿ったマニュアルとなった。それでも、一度出来上がったものが完璧ということはない。製作する度に手を加えることもある。鉛筆書きのマニュアルは、訂正だらけでグチャグチャになっていく。あまりに見にくくなると間違いの元になるから、ワープロで打ち出すことにした。これなら訂正が簡単で、しかも見易い。

 ちなみにアームチェアCATのマニュアルは6ページ、作業工程は38番まである。

 書き物にしておくと、客観的に見られるという利点もある。何年も経ってから「あれっ、どうしてこんなやり方にしていたんだろう」などと思うことがある。過去に別の自分が居たように感じることすらある。そういう時は、新しいアイデアが発露する瞬間でもある。記憶に頼っているだけでは、ここまできっちりと見直すことはできないだろう。「工芸に要領無し」などという言葉もあるようだが、私は要領を可視的に固定し、それを改善、発展させるというプロセスを大事にしたい。

 製作要領書と図面と木取り表。この三種が透明なビニール袋に入って、各々の定番椅子のために準備されている。もし同業者がこっそりこれを手に入れることができたとしたら、喜ぶだろうか、それとも呆れるだろうか。




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